今日は本当は、違うことを書こうと思っていたのですが、昨日行った「大阪交通科学博物館」が、あまりにもすごかったので、今日はその話。
実はこの「大阪交通科学博物館」、2014年4月6日(日)をもって閉館するのです。
つまり、あと2か月ありません\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ご興味ある方は、今のうちですよ!!
僕が小さい時に、図鑑で興味深々で見ていた、リニアモーターカーの実験車両の初号機の実物や、国産実用機初のジェットエンジンだったり、世界初のエンジン付き乗用車だったり。。
僕が生業としている自動二輪車の展示もありますが、実は僕には、いつか絶対に見ておきたかったものがありました。
それがこれ!!
何じゃこれ?
僕と同じように、メカに興味ある人だったら、「飛行機用の星形レシプロエンジンだね^^」ってわかって頂けるかも。
仰る通りなんですが、実はこれは、当時の日本の技術の粋を結集して開発された、太平洋戦争末期に、日本の戦闘機が、迫りくる連合軍の戦闘機や爆撃機に対して、優位に戦うことが出来、日本軍の有終の美を飾ることになった、
「ハ45・誉(ほまれ)エンジン」
なのです^^
開発・生産は今のスバル、富士重工業の前身である、中島飛行機で行われていました。
元々錬金技術や量産技術の乏しかった日本。
当時ヨーロッパなどで主流だった直列V型水冷エンジンは、日本でもドイツのメッサーシュミットBF109等に搭載されたDB601をライセンス生産していました。
↑メッサーシュミットBF109 G-6
↑ダイムラーベンツD601A 重心を下げる為か、倒立であることがわかりますね。
ですがクランクシャフトが長いため、ネジレが強く発生し、ニッケルが不足していたり合金や鍍金技術が低かったり、焼き入れ技術が低かったためにトラブルが続出し、本国ドイツでの性能を発揮するのは難しかったのです。
また、前方投影面積のせまい直列エンジンは、一番前のシリンダー以外は全く飛行風が当たらないので、絶対に水冷(当時は液冷って言ってました)にする必要があり、構造の複雑化や、部品点数の増加を招き、戦時の生産性や、整備性の低下を招いていたのです。
そりゃそうでしょう?
優秀な技術者はみんな戦死してしまって、つい1年ほど前まで縫い物しかしたこと無かった女性や、学徒動員で12、3歳の未経験の少年たちが、工場で働いていたり、戦地で整備兵やってたんです。
無理もありませんわな。。
そこで、水冷にすることなく、壊れないエンジンで、連合軍に勝てるエンジンを、となるわけです。
実は、そういう問題が出ることは戦前から予想されていて、1,940年にはすでに、この誉エンジンの開発はスタートしており、クランクシャフトが短くて、小型で軽くて、整備性の高い、当時世界最強を誇っていた「ゼロ戦」に搭載されていた星形の、「ハ35、栄(さかえ)」エンジンをベースに開発しよう、という事になりました。
戦争末期の連合軍の最強エンジンのパワーは2000馬力、当時最強戦闘機と言われた米陸軍の、「P51ムスタング」のエンジンは1695馬力でした。
↑P51 ムスタング
そこで、2000馬力級エンジンとしては最小の排気量、星形としては世界最小の直径で達成したのがこの「誉」エンジンです。
なぜ世界最小のサイズ、排気量にコダわったかは、書き出すと止まらなくなるのでハショります(^_^;)
↑誉エンジン 中島飛行機の跡地に、埋められていた物なんだって^^
この誉エンジン、開発に苦労した点の一つとして、いかにして冷却効率を上げるか、という点でした。
空冷バイク好きの方にはお分かり頂けると思いますが、空冷はエンジンの表面積を増やすことで、冷却効率を獲得しています。
じゃあなぜ苦労したかというと、星形エンジンは多気筒化すると、どうしても前列と後列に配置されるシリンダーが出来るのですが、前列はイイとして、後列は当然風が当たりづらいので、前列のシリンダーの間から見える様に配置されるのですが、それでも後ろは冷えにくい。
↑誉エンジン 横からの図。左側が飛行機前部で、プロペラが付く。 飛行風が当たりづらい後列シリンダーが冷えにくいのは、誰が見てもわかる。
バイクの縦置きV型エンジンも、水冷であろうが空冷であろうが、リアバンク側は放熱が悪いので、プラグの熱価を変えていたりしますねえ、それとおんなじです。
ゼロ戦の栄エンジンは14気筒、誉は18気筒です。
どうしても栄に比べると、後列は風が当たりにくい。
しかも高出力化の為、過給機装備でブースト圧を上げていたので、燃焼温度は高くなりました。
そこで空冷フィンの枚数を極限まで増やすことが必要になるのです。
ここですごいのが、この博物館で見たこのフィン!!!
僕はこのフィンが見たくて、この博物館に行ったといっても過言ではありません。
厚さは1~2mm、フィンとフィンとの間隔は、おおよそ3~4mm位しかありません!!
エンジン本体の製作は鋳造(金型に金属を流し込んで固める方法)で作られていますが、当時の鋳造技術でここまで繊細なフィンは、製造が不可能だったのです。
そこで、あらかじめ別々に製作しておいた板状のフィンを並べておいて、それを本体製造時に一緒に鋳込むという方式が採られました。
ただどう考えてもこの方式、戦時の量産体制には手間が掛かり、向いていません。
性能は素晴らしいモノでしたが、量産はフィン間の間隔を約5mmに増やして、すべて低圧押湯式鋳造法という技術で作られました。
この技術も当時は実は画期的だったのですが、性能は当然、落ちたことでしょう。。
みなさん空冷バイクに乗っておられる方、愛車のエンジンを見てみてください。
フィンはたぶん3mm以上の厚さで、5mm以上の間隔があるでしょう?
↑ビューエルX-1の空冷フィン
今の技術をもってしても、誉のフィンは、すごいモノなのです。
それに、なんか芸術的だとは思いませんか?
この個体のフィンは、シリンダー部が3~4mm間隔、シリンダーヘッド部が5mm位でした。初期の量産品だったのかなあ。。
ただやはり戦時の物量不足や技術者不足などにより、本来の性能を発揮出来ずに、戦場に散っていった兵士も多かったのは、悲しい出来事でしたが。。
このエンジンが搭載された機体はいろいろありますが、のちにその強そうな名前から育毛剤の名前にもなった「紫電改」や、偵察機「彩雲」などがあります。
紫電改(紫電21型)は、愛媛の松山に、本土防空の要として配置された部隊、「343空」で使用され、昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したと言われています。
↑この写真は、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた機体で、今も愛南町にある南レク馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されていて、僕も見に行ったことがあります。
機体の大きさからくる迫力と同時に、何か霊魂の様な圧迫感を感じたのを今でも覚えています。
彩雲は偵察の際、追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」(「我ニ追イツク敵機無シ」だったという説もある)の電文は、本機の高速性能を示す有名なエピソードですね。
↑彩雲 敵のどんな戦闘機からの追撃も振り切れる速度を持つ機体、として開発された。
ちなみにこの誉エンジンの技術は、当然、今のスバルの車であるレガシイやインプレッサ、BRZ(トヨタでは86)等に受け継がれているのは勿論の事、この開発者であった中川良一技師が、プリンス・スカイラインや、日産スカイラインの開発に携わっておられたので、今の日産自動車にも、脈々と受け継がれています。
戦争は悲しい出来事ですが、当時の技術者のチャレンジ、意欲、イノベーションが、今の日本のモータリゼーションの礎になっていることは間違いのない事実です。
僕もイッチョカミしてる!?人間なので、他から何を言われようと馬鹿にされようと、新しいことにチャレンジし続ける事が大事なんだと、再認識した博物館でした。
本当はもっともっと書きたいこと、いっぱいあるけど、仕事があるのでこの辺にしておきます^^
新しくできる梅小路の博物館も、絶対見にいこうっと(^^)v
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