今日はバイクネタは離れて、最近ワタシが興味を持っている、会社がある大阪、生野区の郷土史を少し。
生野本通り商店街の入り口に、「源ヶ橋」っていう交差点があります。
表題の、「源さん」に反応した方!!
この「源さん」は、大工ではないのであしからず^^
このネタわかる人は、ひょっとしてギャンブラー(^^)v
ココの下にむかし、っていうか今も、猫間川っていう川が流れているそうです。
今も?って、なぜかというと、下水道になってしまって、地下深くを流れているそうです。
この川、実は元々自然の川で、豊臣秀吉の大坂城の、天然の堀になっていたこともあるそうです。
「猫間川」でググってみると、出るわ出るわ、いっぱいたくさんの人がブログなどで書いておられますね^^
ご興味のある方はどうぞ!!
そこでこの「源ヶ橋」の地名の由来ですが、200年も昔、江戸時代に、ここを流れる猫間川にかけられていた橋の名前で、その橋の欄干だった、もしくは渡し船をつなぐビット(岸壁にある、船をつなぐロープをかける柱)だったとも言われている石柱のてっぺんが、すぐ近くにある郵便ポストの下に、にょきっと生えています^^
その「源ヶ橋」を掛けたのが、源さんだったんですねー
じゃあその善人の源さん、なぜそんな良いことをしたのかって言うと。。
実はその源さん、実は極悪人だったんですね~
源さんこと、「源兵衛」は、それはそれは悪い奴で、源兵衛がこの地で渡船の船頭をやってた頃。
悪人源兵衛は、金持ちそうな乗客を乗せては、その乗客を殺して、死体は猫間川に捨てて、金品を奪って生活してたんですね。
ここで案内人の方に、「こんなに川幅が狭いのに、渡船なんか必要だったの?」と聞くと、その昔、川は運河の役割もあって、ただ単に橋渡しだけでは無かったんだって。
現代のタクシーみたいな使われ方してたみたい。
そういや大阪って、むかし、「東洋のベニス」って言われる位、運河が発達してたって聞いたことあるような。
猫間川の川幅なんて、片道一車線の生活道路くらいだったらしいですから。
それに今と違って、人の命は軽く見られていて、捕まることも無かったのでしょう。
だって、あの善人で有名な、「水戸光圀公」(黄門ちゃま!!)も、いざという時にためらいなく人が斬れるよう、るんぺんさんを練習で斬っていたと、記録に残っているくらいですから。。
黄門ちゃま、に反応した人、あなたギャンブラーですね^^
僕はとっくに卒業してますのであしからず・・・
その悪人源兵衛、毎日人を殺しまくっていたのですが、ある日、いつもの様に乗せた客を殺したところ。
その殺した客は、実は昔生き別れた、源兵衛の息子だったことがわかります。
手荷物見てわかったのかもしれませんね。
非常にショックを受けた源兵衛、その後は渡船をやめて出家し、今まで殺した人から奪ったお金を使って、返すという意味でここに、人々に役立つ橋を架けたのです。
源兵衛さんは坊さんとなって、人々の役に立つことを沢山したのでしょう。
人々はこの源兵衛がかけた橋に、「源ヶ橋」という名前を付けた、という事です。
そしてその、善人となった源さん。
自分の息子をはじめ、殺した人々を供養するため、お地蔵さんを立てました。
それが今も商店街のメインストリートからちょっと脇道へそれた、民家の前に移設されて残っています。
その言われがかかれた原本も、お地蔵さんの横に!! 額に入れられて置かれています^^
いいんですかこんな大変な物、しかも紙の原本!! まあさすがに江戸時代の書物ではないと思いますが、こんなところに置いといて。。
あら、昭和って書いてますね。盗っても大したこと無いモノだって、地蔵守の人が思っているからでしょうが。
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